2021/08/18

23. 碧宝珠

 ぼくはフルカスと二人で村長の屋敷をこっそり抜け出し、牢屋らしき建物へ向かった。
 カダルは既にいびきをかいていたし、フォンは別の部屋だったから。

 裏手に回り、牢屋を覗き込めば、中には囚人の男がひとり。身なりはぼろぼろだが、神官服を着ている。まだ若いその男は、ぼくたちに気付き、驚きの声を上げた。

「よかった! あなたがたは外から来た人ですね」

 鉄格子に顔を寄せ、嬉しそうに顔をほころばせる。その様子は、とても悪事を働いた囚人とは思えない。
 警戒しつつ鉄格子の前まで近付くと、男は声を潜めて言った。

「この牢の外壁、右から2つめ、下から4つめのレンガがひとつ外れるはずです。調べてみてください。そこにオーブを隠してあります」

 それは、あまりにも唐突な、予想もつかない言葉だった。面食らうぼくの肩を、フルカスがぽんと叩く。
 囚人の男は「時間がない」と必死に訴えている。とにかく質問は後回しだ。

 壁の周辺はもろくなっていて、石で土をかき出すとブロックが外れた。レンガの隙間に、何かがきらめいている。
 狭すぎて、フルカスの腕は入らない。ぼくは腕を伸ばして、碧色に輝く美しい宝玉を取り出した。

「これは……?」
「六つのオーブのひとつ、グリーンオーブです」

 ひどく安堵したような声で男が呟く。まるで、もう心残りはない、と言いたげに。

 どういうことなのか、詳しく事情を聞きたかった。しかし、その暇はなかった。
 不意に暗闇の中に明かりが灯り、黒い影が近づいてくるのが見えた。

「逃げてください、早く!」

 男が叫び、ぼくとフルカスは、言われるまま牢から離れ、駆け出した。振り返ったぼくの目に映ったのは、尖った牙と蝙蝠のような羽を持つ魔物の姿。
 牢屋を見回りに来たのは、人間ではなく、魔物だ。なぜ魔物が村の中を徘徊しているのか、どうして囚人の神官がオーブを持っていたのか。

 頭の中でぐるぐると思考が渦巻き、やがて意識はその渦の中に飲み込まれていった。



 朝陽が、直接顔に射しかかる。昨夜、カーテンを閉め忘れたのだろうか。
 まぶしさに軽く寝返りを打って、もう一度夢の中に戻りかける。

(そういえば、いつベッドに入ったんだろう……)

 昨夜からの記憶が、靄がかかったように不鮮明だった。確か、屋敷の裏手の牢屋へ行き、神官服を着た囚人と言葉を交わした。

 はっとオーブのことを思い出し、ぼくは慌てて跳ね起きる。その瞬間、ベッドが軋みを上げ、大音響と共に底が抜けた。

「いてて……。な、なんだ、これ?」
「おはよう、アレル。朝起きたら、この有様よ」

 部屋の中で、フォンが苦笑している。正確には、部屋なんかじゃない。寝ていたベッドはボロ板同然。壁はところどころ剥がれ落ち、蜘蛛の巣だらけ。
 目を覚ましたフルカスとカダルも、室内の変わり果てた様子に目を見張っていた。

 革袋を探ると、淡く光るグリーンオーブは確かにあった。昨夜のことは、現実。

 なんだか、狐につままれたようだ。
 もちろん村長はいないし、村中を歩き回っても、人などひとりもいない。建物は荒れ果て、あちこちで毒の沼地がブクブクと泡を吹いている。

 囚人がいた牢屋も、同じく廃墟と化していた。崩れ落ちた壁から牢の中に入ると、冷たい床に白骨化した屍が一体ある。
 近くの壁には、釘で引っかいたのだろう文字が刻まれていた。

『生きているうちに、オーブを渡せてよかった』

 あの神官が記したに違いない。きっと、これは彼の最期の言葉だ。

 重苦しい気持ちで、ぼくたちは海賊たちが待つ船に戻った。
 テドンの村の真実を知ったのは、その数日後。

 かつて、テドンの村の教会にグリーンオーブがあった。それゆえに、魔王軍が村ごとオーブを葬ったという。女も子供も村のすべてを、一夜にして。

 ぼくたちが見た村の光景は、テドンの人々の悲しい思いが作った幻だったのかもしれない。

「どうか、安らかに……。必ず、魔王を倒すから」

 テドンから遠く離れた海上で、ぼくは心に誓いを立てるように、白い花をそっと海に放った。


イングリッシュパーラー

2021/08/15

22. 違和感

 テドン河の西で、ぼくたち四人は船から降ろしてもらった。
 案の定、そこには小さな村があり、家々や店から明かりが漏れていた。アッサラームのような歓楽街ならともかく、夜遅いというのに、どの店も開いているのが不思議な気がする。

 こちらを気をする者は、誰一人いない。そんな中、村長だという老人に声をかけられた。宿に困っていると思ったのだろう。今夜泊まっていくようにと、自分の家に招いてくれた。

 村一番の旧家だという屋敷は、立派なたたずまいだった。けれど、村長の顔はやせこけて青白い。魔物の心配はないのか尋ねても、曖昧に微笑するばかり。

 ぼくたちがバラモス討伐の旅をしているのだと話すと、村長は、魔王の城へ行くには、六つのオーブが必要だと教えてくれた。オーブは一つではなく、六つ。
 全てのオーブを集めた時、伝説の不死鳥ラーミアが蘇る。ラーミアのみが、魔の城に辿り着けるのだという。

「ラーミアは天界の生き物で、精霊神ルビスのしもべ。六つのオーブを手に入れたら、最南の島レイアムランドに行くとよいでしょう。そこで、ラーミアは蘇ります」

(……ルビス?)

 村長が告げた名に、どうしてか、ぼくは胸の奥が痛むのを感じた。知らない名前のはずなのに。

 この村も村長も、どことなく雰囲気がおかしい。魔王の事をよく知っている様子だが、こちらから質問すると、はぐらかされる。何もかもが謎めいていた。

 食事を終え、休むための部屋に案内されても、気持ちが落ち着かなかった。ぼくだけでなく、仲間たちも同じらしい。

 ふと窓から外を見ると、屋敷の裏に、小さな四角い建物が闇の中にほの白く浮かび上がっていた。物置、いや、あれは牢屋だ。
 なぜ、そんなものがあるのだろう。


イングリッシュパーラー

2021/08/11

21. テドンの村

【アリアハン暦 1275年1月7日】

 新しい年は、海上で迎えた。

 海賊船はランシールに向けて、ネクロゴンド大陸を右手に見ながら南下していた。船室の窓から、黒々としたその大陸を見つめていると、居ても立ってもいられない気持ちになる。

 この大陸のどこかに、魔王バラモスがいる。ネクロゴンド大陸は海岸線が切り立った崖のため、船で近づくことは不可能だ。
 テドン河の東には山脈が連なり、魔王の出現以来、来る者を拒む天然の要塞となっている。陸からも海からも、侵入する術がない。

 バラモスの地へ行くには、オーブが必要だと言われた。早くオーブを手に入れなければ。
 ぼくはぎゅっと拳を握り締めた。言いようのない感情が、全身を駆け巡る。

 船室のドアが叩かれ、オルシェが入ってきたことにも気付かず、ぼくは眼前のネクロゴンドを見据えていた。オルシェに名を呼ばれ、はっと我に返る。

「悪いけど、甲板に来てくれるかい。ちょいと変なんだ」

 眉を寄せてそう告げられ、不安がよぎる。甲板に上がると、フルカス、フォン、カダルの三人の姿も既にあった。

 夜の海は暗く、不気味なほどに凪いでいる。

「あの明かりなんだけどね」

 オルシェの指し示す方向に目を凝らせば、岬の側に町明かりらしきものが見えた。けれど、そのあたりに人はいないはずだと言う。
 かつてはテドンという村があったが、その村は何年も前に魔物の襲撃に遭い、全滅したのだ、と。

 岬付近なら、テドン河をさかのぼれば、船をつけられる。上陸して様子を調べたほうがいいかもしれない。



幕間:オルシェの追想

 勇者オルテガの息子だという男、アレル。魔王バラモスなんて、あたいたちの知ったこっちゃないけど、カンダタの頼みだし、奴を負かした男ってのに興味があった。
 船に招いたのは、そんな理由から。

 しばらく一緒に船で過ごすうち、あのカンダタが入れ込む理由が分かった気がした。アレルは、すべてを包み込む温かい眼をしてる。
 あたいらのような裏稼業の者さえ、惹きつけてしまうような温かさ。

 あれは、アレルたちを海賊船に乗せて、10日余り過ぎた頃。
 水先案内のバーマラが、岬のそばに明かりが見えると言い出した。あたいの記憶では、このあたりに人はいない。確か、昔は村があった。小さなひっそりとした村が。

 少しばかり考えて、あたいはアレルの船室のドアを叩いた。その時、アレルは、遠くに見えるネクロゴンド大陸を怖いような眼差しで見つめていた。

 本当に、アレルなんだろうか。そう疑ってしまうほどに、それは、あたいが知っているいつもの優しい笑顔とはまったく違うものだった。


イングリッシュパーラー

2021/08/09

20. 海賊船

【アリアハン暦 1274年12月22日】

 ダムスの口添えで、彼の商人仲間の持ち船に乗せてもらい、十日前にバハラタの港を出た。
 カンダタの情報によれば、ランシールに、オーブかもしれない宝石がある。商人船が向かう地はランシールではないものの、同じ方向なので近くまで行けるなら充分だ。

 穏やかな航海が続いていた中、右舷からまっすぐこちらに向かってくる一艘の船に気づき、ぼくは眉をひそめた。警告を出しても、こちらの船に急接近してくる。

 商人船は不審に思い、全速力で振り切ろうとした。しかし、見る間に追い付かれ、船を横付けされてしまった。どうやら、海賊船らしい。
 
 縄ばしごをかけ、手際よく次々と海賊たちが甲板に乗り込んでくる。人数は30人程。商人は皆、両手を挙げて服従を示した。
 立ち向かえないこともなかったが、彼らに危害が及ぶ恐れがある。ぼくたちも抵抗せず機を窺うことにした。

 海賊の中にひとり、二十歳ぐらいの若い女がいて、値踏みするようにこちらを見つめている。その視線とかち合うと、彼女は白い歯をのぞかせて笑った。

「安心しな。お目当ては積荷でも、あんたらの命でもないからさ」

 短く髪を刈り込み、日に焼けた健康的な美女。海賊たちから「姐さん」と呼ばれているところを見ると、頭目なのかもしれない。
 彼女は、商人に手を出さない代わりに、ぼくたち四人に海賊船に来いと言う。

 否を言える状況ではない。バハラタの商人たちに、ここまで乗せてくれた感謝と詫びを伝え、ぼくと仲間たちは海賊船に乗り込んだ。

 てっきり捕虜になったと思い、反撃する隙を狙っていたのだが。
 海賊の女頭領だというオルシェは、意外な種明かしをした。

 驚いたことに、オルシェとカンダタは顔馴染で、ぼくたちを手伝ってやってくれと、カンダタから頼まれたそうだ。若干方法は荒っぽかったけど、海賊たちはオーブ探しに手を貸すために、商人船を止めたわけだ。

 タニアさんをバハラタへ送り届けた後、カンダタは子供たちが待つ聖なる洞窟へ戻って行った。ぼくたちには何も言わず、影で動いてくれたのだろう。

 そう思うと、じんわりと感謝の気持ちでいっぱいになる。
 盗賊だったカンダタ、海賊のオルシェ。人から物を奪うこと、それ自体は悪いことに違いない。けれど、彼らなりの正義を持っている。

 生きていくために、きれいごとだけではやっていけない。人には、いろいろな生き方がある。旅を続けていくうちに、時々ふと疑問が頭をかすめるようになった。

 正義とは、何なのだろう。そして、ぼくは本当に「勇者」なんだろうか。


イングリッシュパーラー

2021/08/08

19. 東方見聞録

幕間:カンダタの追想

(早く帰ってやらんとな……)

 肩にかついだマッドオックスを抱え直し、俺は野道を急ぐ。
 小型の牛に似たこいつは、肉が少し固いが、結構味はいい。

 腹を空かせたガキどもが待っているし、先日助けた娘はまだ脚が不自由な身だ。たんと栄養をつけさせて、早く怪我を治してやらねばならない。

 以前のように盗みをすりゃ、食糧も簡単に手に入るが、もう俺は盗賊から足を洗っていた。 シャンパーニの塔でこの俺を初めて負かした小僧は、オルテガの息子だと名乗った。勇者オルテガのひとり息子だ。

 あの後、俺はあれこれ考えた。塔から逃げた俺に追っ手をかけなかったのは、何故なのか。体力が消耗しきっていたにしても、ロマリア兵に俺を追わせることもできたはずだ。なにせ、俺もあのときはかなり痛手を負ったのだから。

 要するに、あえて見逃したのだろうという俺の推測は、あながち外れちゃいまい。

 いい目をした小僧だった。あの真っ直ぐさは、オルテガ譲りだろう。

 盗みを働くことに嫌気がさし、今ここでガキどもの世話をしている己の姿は、俺自身でも笑ってしまう。だが、それが不快ではないのは、あの小僧と出会ったせいか。

 いつかあいつは、父親を越える男になるかもしれない。その日を見届けたいと思うのは、俺としちゃ、えらく珍しいことに違いなかった。





 洞窟に戻ってきたその男は、ぼくたちの姿を認めた途端、表情を凍りつかせた。
 カンダタにとっても、思いも寄らない再会だったろう。

 タニアさんやリトには、カンダタとぼくたちはちょっとした知り合いだと告げた。カンダタが盗賊だったことには、いっさい触れない。
 慕っている子供たちの前で、過去の因縁を持ち出すのは酷だ。

 今日はもう遅い。カンダタは、明日タニアさんをバハラタへ戻すことを了承し、ぼくたちに洞窟に泊まるようにと場所を提供してくれた。
 もともとそれほど悪い奴じゃないと思っていたけど、その変わり身にやはり驚いてしまう。

 翌朝、まだ野道をひとりで歩くことは無理なタニアさんを軽々と肩に乗せると、カンダタは心配げなリトの頭をくしゃりと撫でて洞窟を後にした。

 バハラタへ向かう道中、ぼくたちは互いに特に口を開くこともなかった。タニアさんは、どこか不自然な空気を感じ取ったかもしれないが、あえて何も聞かない。

「お前、まだオーブを探してるのか?」
「え、あ、うん」

 ふいにカンダタに問われ、言葉に詰まる。

「ある筋から聞いたんだがな、ランシールの神殿にオーブがあるらしい」

 南の海にある島国、ランシール。ぼくたちのために、オーブの情報を集めてくれたようだ。思いがけない言葉に目を丸くしていると、カンダタは自嘲気味に笑った。

 信じるもよし、信じないもよし。

 ありがとう、とぼくは素直な気持ちで礼を言った。今のカンダタは盗賊ではない。タニアさんや子供たちに、不器用ながらも優しく接していたし、昨夜のマッドオックスの煮込みもとても美味しかった。

 それから後、バハラタにタニアさんを連れ帰った以降の話は、ぼくがここに詳しく書くつもりはない。ダムスが書き記してくれるだろうから。

 タニアさんとダムスはバララタで互いの無事を喜び合い、それを機に、聖なる洞窟の人さらいの噂も聞かれなくなった。
 さらに、バハラタとポルトガ間の黒コショウ貿易が始まった。

 貿易協定を成立させた功績で一躍有名人になったダムスは、ポルトガ王からも絶大な信頼を得て、王の勧めで東方の国バハラタを紹介する書物を記すそうだ。
 バハラタを訪れた旅人という体で書かれたその物語は、題名を『東方見聞録』という。


イングリッシュパーラー

2021/08/04

18. 聖なる洞窟

 タニアさんが行方不明になって、すでに10日経つ。
 バハラタ近くの森の中、精霊に守られ、唯一魔物が寄り付かない場所。そこに、人さらいの住処と噂される洞窟があった。彼女がいるとすれば、その洞窟だ。

 洞窟はすぐに分かった。とはいえ、中に踏み込んでいいものか躊躇してしまう。
 しばらく外から様子を窺っていると、洞窟の奥から若い女性が姿を見せた。
 
 水汲みに出てきたその女性は、木の桶を右腕に抱えながら、もう一方の腕で松葉杖をついている。足を痛めているらしい。
 女性は普通の町娘で、人さらいの仲間には見えない。

「あの、タニア……さん、ですか?」
「え、はい、そうですが」

 思い切って声を掛ければ、期待通りの答えが返ってきた。
 ぼくたちは事情を話し、ダムスがバハラタに戻ったことを伝えた。タニアさんは恋人の無事に安堵し、目に涙を浮かべている。

 薬草を摘んでいた時、彼女は崖に転落し、この洞窟に住む男に助けられたそうだ。命に別状はなかったが、怪我で歩くことができず、洞窟で養生させてもらっているのだという。

「みんな心配してるだろうと思ったのですが……。少し歩けるようになったので、カンダタさんに頼むつもりだったんです」

 涙を拭いながら、タニアさんが言った。
 思わぬところで出た思わぬ人物の名に、ただ呆気に取られる。カンダタとは、あのカンダタなんだろうか。

「……タニア姉ちゃん、誰か来たのか?」

 突然洞窟から10歳くらいの少年がひょっこり顔を覗かせた。

「ええ、バハラタから私を探しにきてくれた人たちなの。警戒しなくて大丈夫よ、リト」

 タニアさんがそう説明すると、リトと呼ばれた少年はジロリと鋭い目でこちらを睨んでくる。

「バハラタから、って。親父を捕まえに来たんじゃないのかよ」

 少年の言う「親父」とは、カンダタのことらしい。
 タニアさんは、森で怪我をしたり飢えた身寄りのない子らをカンダタがこの洞窟で保護しているのだと、教えてくれた。

 カンダタは人さらいをしてるわけじゃない。シャンパーニの塔を出た後、盗賊から足を洗い、この地で子供の面倒を見て、人助けをしていた。
 あまりに意外な事実に、ぼくたちは言葉もなかった。


イングリッシュパーラー

2021/08/03

17. 人さらいの噂

【アリアハン暦 1274年11月23日】

 ポルトガを発ってからひと月後、広大なバルト河を前にしたとき、思わず感嘆の溜息がもれた。この大河の川幅は、アリアハン城がふたつは建てられるほどに広かった。

 河辺を住処にしているドルイドや、凶暴な巨大猿のキラーエイプ。出没する魔物たちも多く、確かに護衛でもいなければ、普通の行商で陸路は危険過ぎる。

 バルト河を川沿いに1日ほど歩き、ようやくバハラタの町に到達した。
 町中では、緩やかな河のところどころで沐浴をしている人を見かけた。ダムスが言うには、あれは身を清める「みそぎ」と呼ばれる習わしらしい。

 道具屋を営むダムスの家では、母親が息子の帰りを一心に待っていた。何ヶ月ぶりかで戻った彼を、ダムスの母親は涙ぐんで抱きしめる。
 その姿に、アリアハンにいる母さんの姿が重なり、ちくりと胸が痛む。きっと、母さんもこんなふうにぼくのことを待っているんだろう。

 ダムスの母親は、ぼくたちに何度も感謝の言葉を述べた後、ふっと表情を曇らせた。

「実は、タニアのことなんだけど……」
「タニア? 彼女に何かあったの!?」

 言い淀む母親に、ダムスは顔色を変えて問い詰める。それは、ダムスにとってひどく衝撃的な話だった。

 10日程前、彼の恋人タニアが、薬草を摘みに森へ出かけたきり戻って来ないのだという。
 魔物に襲われたのか、あるいは人さらいに遭ったのか。

 最近、バハラタ近辺で、親のない子供たちがいなくなる事件が起こっているとのこと。そのため、森に人さらいが住み着いているのだと物騒な噂が広まっていた。

 助けに行くと言い張るダムスに、ぼくたちがタニアさんを必ず連れて帰るから、町で待っているようにと説き伏せる。ダムスはしばらく一緒に旅をした仲間だ。放ってはおけない。

 居ても立ってもいられない気持ちはよく分かる。でも、同行に簡単に応じられるほど安全な場所でないことは、ダムスも、いやむしろダムスの方がよく分かっているに違いない。


イングリッシュパーラー

2021/08/01

16. バハラタへ

【アリアハン暦 1274年11月5日】

 バハラタへ向かう陸路で、一番の難所がアッサラーム東のバグラ山系だ。魔物も襲ってくる中での山越えは、商人のダムスにはきつい。
 そのため、適度に休みを入れながら、夜はいつも早めに野宿の準備に取り掛かる。

 夜半過ぎ、カダルと見張りを交代するためぼくが起き出した頃、カダルはダムスと火の側で語らい合っていた。何日かともに過ごせば、気心も知れてくる。

「へえ。じゃあ、恋人がバハラタで待ってるんだ」
「ええ。きっとタニアは、ぼくが戻らないので心配してるでしょう」

 二人は、ダムスの故郷、バハラタのことを話していたらしい。ぼくは見張りの交代をカダルに告げ、ダムスにも寝るように促した。眠っておかないと、明日の行程が辛くなる。

「恋人かー。いいなー、なあ、アレル」
「なんで、ぼくに振るんだよ」

 寝床へ向かいつつ、カダルが同意を求めてくる。

「こんな旅してたら、恋もできないよな。そうだろ、アレル」
「……だから、なんでぼくに振るんだ」

 いつにも増して、カダルの様子がおかしい。村を出る時、女の子たちにさんざん泣かれただのなんだのと話すカダルの横に、酒瓶が転がっていた。気付けや火をおこすために、わずかながら常備していたものだ。
 たいした量ではないけれど、カダルはそれを飲んで、こうなったに違いない。

「まったく……。フルカスたちには黙っててやるから、早く寝ろよ」

 呆れて空瓶を拾い上げるが、カダルはいっこうに口を閉ざさなかった。

「アレルも16だよなー。その歳まで好きな奴いないってのも、なんだかなー」

 半分絡み酒だ。このままでは埒が明かないと思い、仕方なく眠りの呪文ラリホーを唱える。 静かになったカダルに毛布を掛けて、ぼくはひとり火の番に付いた。


幕間:アレルの追想

 時折、不思議な夢を見る。

 今よりも少し大人になったぼくが、大きな鳥の背に乗り、大空を飛んでいた。その横に寄り添うようにして、ぼくに笑いかける女性。
 炎のように紅く長い髪が、柔らかに風になびく。けれど女性の顔は思い出せない。夢なんて、そんなものだろう。

 夢の中のぼくは、そのひとをとても大切に思っている。朝目覚めたときに、まだ胸に残る苦しいほどの切なさが、それを物語っていた。

 また、ある夜の夢では、ぼくは別のぼくだった。以前より少し距離を置いて、それでもやはり、その女性はぼくの傍にいた。
 互いの立場が少し違うらしく、そのひとの前にぼくは片膝をついて仕えている。隣に並び立つことができなくても、気持ちはずっと変わらない。多分、彼女のほうも。

 旅に出てから、この夢を見ることが増えた。
 あるいは、何かの暗示で、旅を続けていれば、いつかその女性に会えるのかもしれない。

 けれど、霧の中を歩くかのように、はっきりしたものは何も見えなかった。


イングリッシュパーラー